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太陽の下、なされるあらゆる労苦は
人に何の益をもたらすのか。
一代が過ぎ、また一代が起こる。
地はとこしえに変わらない。
日は昇り、日は沈む。
元の所に急ぎゆき、再び昇る。
南へ向かい、北を巡り
巡り巡って風は吹く。
風は巡り続けて、また帰りゆく。
すべての川は海へ注ぐが
海は満ちることがない。
どの川も行くべき所へ向かい
絶えることなく流れていく。
すべてのことが人を疲れさせる。
語り尽くすことはできず
目は見ても飽き足らず
耳は聞いても満たされない。
すでにあったことはこれからもあり
すでに行われたことはこれからも行われる。
太陽の下、新しいことは何一つない。
見よ、これこそは新しい、と言われることも
はるか昔、すでにあったことである。
昔の人々が思い起こされることはない。
後の世の人々も
さらに後の世の人々によって、思い起こされることはない。
(コヘレトの言葉1章3~11節)
今日あらゆる価値観が多様化し、わたしたちはそれまであたり前であったもの、あるいは考えなくてもすんでいたことが、もう一度問い直される危機の時代を迎えています。そのような状況のなかで、わたしたちは生きるための意義や指針を失い、生きるための希望を失っています。
2千年前に生まれた、ナザレのイエスは同じような状況を生きていました。病気や貧困にあえぎ、その日一日の食べものにこと欠き、生活に疲れた人々に、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と、話しかけられました。そして、ナザレのイエスの言葉は、生きることに疲れ、どのように生きたらいいのか分からなくなっている人々の生きるための支えとなりました。
コヘレトの言葉は、自分の人生は自分の思う通りになって、それが実現していくことが人間の幸福であると考えているわたしたちに、ひとつの問いを投げかけています。わたしたちの人生は何ひとつをして、自分の思う通りにはならないという現実に直面するとき、人生に絶望するのではなく、わたしたちを超えた大きないのちによって生かされ、計らわれていることに気づくチャンスなのかもしれません。
教会は、決して清く正しく生きている人たちの集まりではありません。2千年前と同じように、日々の生活に疲れ切った人たちが、イエスの言葉に耳を傾けるために集まってくるところです。教会は、船を休めて、次の大海原への航海へと備えるため停泊する港のようなものだと言えるかもしれません。教会の扉はいつでも開かれています。そっと中に入って座ってみてください。 そこには思いがけない静逸な空間が広がっています。また、日曜日には決まった時間に礼拝が行われています。ご興味がある方は、ホームページのメニューバー[小教区・ミサ]をクリックしてみてください。皆さんのお近くにも教会があるかもしれません。
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、
わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11章28~29節 新共同訳)